2014年3月22日土曜日

流水は逆らわずして強い。

昨日は異業種交流会でした。
深夜まで盛り上がって楽しかったです。
そして頭を整理するのにいっぱいいっぱいですwwww

作品にしても、人にしても、他人との距離のとりかたって難しいなと思います。
他人は自分の思い通りにならなくて当然。
それがわからない、受け入れられないというのは、相手との関係性はどうあれ、自分と他人を同一視してると思うのです。
いじめっ子とか、相手がイライラするって理由を持ってたりするけど、それも他人と自分が同一視しちゃってて、距離が取れないという事だと思う。
まず、思い通りにならない、自分の意思が通じないという事の方が当たり前で、通じるっていうのは当たり前でなはなく、すごい事なんですから。
他人に自分を受け入れてもらえる、意志が通るという期待をし過ぎないのは大事ですねぇ。
それが出来ない人は結果的に自立できない依存性の高い人かなと感じます。

作品にしても、自分の想いを入れすぎて「わかって」が強いとどんなに良いメッセージでも打ち消してしまうのじゃないか、と最近思います。
人は「わかって」と言われる事を無意で拒絶するように出来ている、とも思うのです。
好意が少しでもあれば、わかってあげたい気持ちもでますが…。

しかし、多くの作家は自分をどう出すか、他者との差を生むかに悩みます。

自分を出しすぎる事がどう作品に影響し、結果、いいのか悪いのか、私にはまだわかりません。

その点、自然というのは本当にすごいもので、ただ、彼らは彼らとしてあるだけなのに、人はそこに抱かれ、癒され、自己治癒力を高めます。
自然は押し付けない、拒絶しない。
ただ、そこにあり、静かで、荒々しく、大きい存在です。

江戸期の日本画にその様な雰囲気を感じます。
自分の想いは入れる、省かない。けど、決して押し付けない。妥協もない。
ただ、そこにあって、受けてに委ねられる程の自信と強さ、包容力。
卑屈さを感じません。

もちろん、自己主張の強い作品が悪いというのではないです。
現代アートは自己主張の強いものが多く、むしろその強さ故に人はカリスマ性を感じるのだと思います。
劣等感があるからこそ、「自分」を残すことにこだわるのかも知れません。


自分がどうありたいか、どの道を進もうとも間違いではないので、これだと信じられる道を見極めることなのではと思います。
私はまだ、どこにも覚悟を決めて、腰を据える事ができていないです。

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