2014年6月3日火曜日

歩くととりあえず何か色々いい気がします。

散歩が好きです。
作品制作に欠かせないのは自然との接触です。

「自然は絶えず我々と語るが、その秘密を打ち明けはしない。
我々は常に自然に働きかけるが、それを支配する何の力もない」
というヨハン・ゲーテの言葉がありますが、作品をそういう存在のしたいのです。
何を得て、何を知り、何を語るかはみる人に委ねたい。

「自然には敵わない」という言葉を聞くことがありますが、そもそもなぜ敵うとか敵わないとか、競うものでもないのにそこを気にするのか私には違和感があります。
自分が下だと思う必要もないはずです。
どういう存在が上とか下とかないのではないでしょうか。
世界を作っているのは自分自身でもあるのですから。
自然には敵わないというのはつまり、自然と自分とが一体になっていないという事で、それでは何も受け入れられないし受け入れられる事もないという事ではないかと思うのです。
落ち葉と自分の違いと共通点を見つければいいだけの話し。
細胞の一粒一粒に意識をおけば、自身と地球の境界線を消して、自然に抱かれるてどこまでも解放する事も出来るし、逆に自分を自分としているのは小さな自我で、いわばそれは意識のコアだと感じる事も出来るでしょう。
自分の存在を世界中に広げることも自分をじっくり見つめる事も自然のなかにさえいればいい。
常に語るけれど決して秘密を明かさないとはそういう事じゃないかと思います。
本当に雄大な存在です。
そしてままた、人も同じ存在になれるのです。
人間という存在は人間という自然な存在であって、植物には植物の、水には水の在り方がある。
彼らは彼らの世界を持ち、人は彼らにない世界を持ち、お互い違うところに生きて、混じり合う。
本質的には同一と思っています。
共存という言葉にもなんだか上手く言えませんが違和感があります。
共に生きるというのは異質な相手に使う言葉で普通は合間見えないものが一緒になる、珍しい事というイメージなので違和感があるかも知れません。

自然は他人であり、兄弟であって自分であって、知らないもの。
相手の世界に少し触れる事が出来て、覗き見る事が楽しいのです。
それは決して自分のものではないし思い通りにはならず、ただそこにあるもので、私がどれだけ感覚を集中できるかが重要。
見えない世界を感じる、聴く、知ると自分の中で大きく動くなにかがあって、それが作品になっていくのです。
その中で、人間にしか生み出せない「自然」もあると思います。
すんごいスピリチュアルっぽい感じですけど全然違いますから。
どちらかというと精神論者じゃなくて唯物論者ですし。
自然と同一化というのもとても科学的な話しですよ。
微分子とかで考えれば元々物質を構築するものは同じなのだから全て同じになるじゃないか、という話しです。
そこに自我という哲学的な要素が入ると上記の様な説明になるけど精神論ではないです。
そもそもスピリチュアルとかオカルトとか科学、哲学って原点が錬金術なのですよ。
錬金術の元もありますけど、それはまだ混沌って感じで定まってなくて、総合的になったのが錬金術。
精神論であり、哲学であり科学だった。
その三つは深いところで繋がって互いの理論を支えてた訳ですから、様々なな思考がそこに戻ってもおかしくはないです。
全ては原点に戻るのです。
微分子も、思考も。
生と死が同一であってお互いが求めあい原点に戻るように。
これはあくまで私の思考なのでこれが正しいとか思ってる訳でもないので。
こう考えると私は楽しいというだけの話しです。
単に錬金術が好きなだけです。
話がずれずれです。戻します。


散歩をしていて思うのは数々の芸術家の作品について。
あの絵師の作品は線も色も少ないのに見事に描ききっていたんだなぁ…あれこそが私の求める一線の重みだなぁ。

あの画家の細密な描写はこれを言わんとしていたんだなぁ、なるほど、彼はあの描写にまさに命をかけたんだなぁ。

あの建築家は、まさに自然と一体になって、尚且つ人と自然との交わらない異質な部分さえも、全てを包んだ世界を残したんだなぁ。

とかとかとか。
では自分はなんだろう、どうするだろう、何を残したいんだろう…と考えて、ただ風景を眺めている事が制作そのものな気がします。
自分の中に答えはある様な、無い様な。

それでも、精神が乱れてなにも手に付かない時はアントニオ・ガウディの建築物の写真を眺めます。
あれこそ、人の創り出す無限の自然な気がします。
人というのは大した存在ではないけど、同時に偉大だと心から思います。

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