2014年7月30日水曜日

2014 YUMI KATURA GRAND COLLETCION INOSAKA 輝きのとき"

8月1日、大阪NHKホールにて行われる"2014 YUMI KATURA GRAND COLLETCION INOSAKA 輝きのとき"で発表されるドレス2着に私の切り絵が装飾されています。


今回はランウェイモデルの他、宝塚OGの方がモデルをされます。大地真央さんも出演が決定。 生オーケストラ演奏。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=793215284052382&set=a.227554243951825.60380.208945289146054&type=1&theater

★チケット販売中 お問い合わせ 

㈱アレキサンドライト Tel 06-6192-8755

以下、ユミカツラ様公式HPより詳細文章抜粋。

開催日時:2014年8月1日(金曜日) 14:00~、18:30~ の2回公演

開催場所:NHK大阪ホール

チケット料金:S席 10,000円、A席7,500円、B席3,500円

出演:宝塚歌劇団OG モデル

指揮:守山俊吾(ブルガリア国立ソフィアフィル常任客演指揮者)

オーケストラ:シンフォニアESPERANZA
News! 大地真央さんも出演決定!
ユミカツラ50周年、宝塚100周年アニバーサリー記念ショー
8月1日NHK大阪ホールにて
★チケット販売中 お問い合わせ 
㈱アレキサンドライト Tel 06-6192-8755

2014年7月19日土曜日

大阪SAMURAI JACK展

明日から26日まで大阪市中央区大手前1-7-31ビルB2FにあるOMMにて切り絵アートグループSAMURAIによるグループ展示SAMURAI JACKが行われます。
在廊はありません。
是非お出かけくださいませ。


2014年6月24日火曜日

Twitterフォロワー様500人達成感謝企画詳細

フォロワー様500人達成感謝プレゼント企画

受付期間
2014/6/24〜2014/6/28

応募方法
応募者参加型企画です。応募条件を必読ください。
フォロー&リツイート
私からのリプで応募完了です。

応募条件
制作者本人である、または許可を得た著作権問題のない写真、または画像を送れる方。
今回はプレゼントなので非商業用フリー画像でも可。
クレジット必要な場合はそれも合わせてお知らせください。
できれば「自分のお部屋に飾りたいもの」であるといいのではと思います。

単純に制作した物をプレゼントでは面白くないのであなたが感じてる世界を覗かせてください。その世界をみて私が感じた事をお返しします。融合できたら双方にとって新しい世界になるのじゃないかなと思います。


写真はあくまでサンプルです。
めっちゃカッコつけてますけど鼻垂らした子供とか動物とか草木とか好きな食べ物とか本当になんでもいいです。
指入ってても線ぶれてても、あなたが本当にいいと思うのならなんでもいいです。
プレゼント企画とはいえ真剣にやりますので真剣に飾りたいかどうかで選んで下さいね。
勿論イラストでも、切り絵でも。
画像として送って頂けて、著作権と暴力的な写真など犯罪臭のするものでなく、法律に問題ないならなんでもいいです。
一種のコミュニケーションと思って、難しく考えず遊んでみて下さい。

販売不可。プレゼントは可ですが自分の切り絵って言わないで下さいね。
サイズはA4です。
推奨350pxl
jpg画像

2014年6月21日土曜日

参加イベント、展示会、HPのお知らせ!

ホームページが出来ました!
下記のリンクからご覧下さい♪


展示などのお知らせでです。

本日21日から開催されております第30回記念日本せん画美術展。
26日まで。
なんと、新人賞頂きました!ありがとうございます!
会場・東京都練馬区田柄3-7-9


6/23~29まで
東京都中央区銀座1-9-8奥野ビル5f
乙女のぎゃらりい☆アモーレ銀座515室 にて
「切り絵8人展」
この人は!という切り絵に真摯打ち込む女性作家をギャラリーオーナー様が選び抜いての8人展!ぜひお楽しみ下さい。


6/25~7/6
東京都新宿区大京町12-9
The Artcomplex Center of Tokyo にて
大細密展
細密画のみの緻密な世界をお楽しみ下さい。


7/2~7/4まで
東京ビッグサイトにてクリエイターEXPO東京に参加いたします。
ブースはアートゾーンの28-19です。
ご来場の際はぜひご商談にお越しください。



切り絵アーティスト カジタミキ HP

2014年6月16日月曜日

作品完成の後には。

まだ完全公開できないですが、完成しました。

作品制作が終わると毎回とてもブルーになります。
なんだろう。
悲しいような、さみしいような。
作品の事も大好きだけど、もっと自分がちゃんとしてたら、もっと魅力的に出来たんじゃないかと思うのが悲しくて悲しくて仕方なくて、「ごめんね」って言いたくなるのです。
次はもっと大事にするよ、と思うけど、この作品にとっての「次」はない訳で、その時、その瞬間しかない訳で、次をどんなに大事にしてもこの作品を大事にすることとは違うんです。
まるで命みたいだなぁって思います。命に次なんてないのですから。
だからどんなに真剣に向き合っても、もっと良くできなかったかなという後悔に似た何かもあるのかも。
でもそんな事でメソメソしていると、出来上がった作品が「大丈夫」って言ってくれてる気がして、励まされて、また頑張ろう、未熟なのは当たり前で全部、何もかもこれからだと思えるようになるので、続けてこれたのだと思います。


それとは全く違うん事なんですけど、技術はすごいのになぜか面白くないもの作るなって方と、技術はもちろんだけど兎に角ドキドキするって方とはどこで違いが出るんだろう。
多分同じもの作っても何か違うんだと思います。
単に私の受信機の問題なのかもしれないけども…

技術は当然磨くものだけど、技術に逃げるのはしたくないし、技術以外のとこに逃げる事もしたくないと思う。


切り絵アーティスト カジタミキ

2014年6月3日火曜日

歩くととりあえず何か色々いい気がします。

散歩が好きです。
作品制作に欠かせないのは自然との接触です。

「自然は絶えず我々と語るが、その秘密を打ち明けはしない。
我々は常に自然に働きかけるが、それを支配する何の力もない」
というヨハン・ゲーテの言葉がありますが、作品をそういう存在のしたいのです。
何を得て、何を知り、何を語るかはみる人に委ねたい。

「自然には敵わない」という言葉を聞くことがありますが、そもそもなぜ敵うとか敵わないとか、競うものでもないのにそこを気にするのか私には違和感があります。
自分が下だと思う必要もないはずです。
どういう存在が上とか下とかないのではないでしょうか。
世界を作っているのは自分自身でもあるのですから。
自然には敵わないというのはつまり、自然と自分とが一体になっていないという事で、それでは何も受け入れられないし受け入れられる事もないという事ではないかと思うのです。
落ち葉と自分の違いと共通点を見つければいいだけの話し。
細胞の一粒一粒に意識をおけば、自身と地球の境界線を消して、自然に抱かれるてどこまでも解放する事も出来るし、逆に自分を自分としているのは小さな自我で、いわばそれは意識のコアだと感じる事も出来るでしょう。
自分の存在を世界中に広げることも自分をじっくり見つめる事も自然のなかにさえいればいい。
常に語るけれど決して秘密を明かさないとはそういう事じゃないかと思います。
本当に雄大な存在です。
そしてままた、人も同じ存在になれるのです。
人間という存在は人間という自然な存在であって、植物には植物の、水には水の在り方がある。
彼らは彼らの世界を持ち、人は彼らにない世界を持ち、お互い違うところに生きて、混じり合う。
本質的には同一と思っています。
共存という言葉にもなんだか上手く言えませんが違和感があります。
共に生きるというのは異質な相手に使う言葉で普通は合間見えないものが一緒になる、珍しい事というイメージなので違和感があるかも知れません。

自然は他人であり、兄弟であって自分であって、知らないもの。
相手の世界に少し触れる事が出来て、覗き見る事が楽しいのです。
それは決して自分のものではないし思い通りにはならず、ただそこにあるもので、私がどれだけ感覚を集中できるかが重要。
見えない世界を感じる、聴く、知ると自分の中で大きく動くなにかがあって、それが作品になっていくのです。
その中で、人間にしか生み出せない「自然」もあると思います。
すんごいスピリチュアルっぽい感じですけど全然違いますから。
どちらかというと精神論者じゃなくて唯物論者ですし。
自然と同一化というのもとても科学的な話しですよ。
微分子とかで考えれば元々物質を構築するものは同じなのだから全て同じになるじゃないか、という話しです。
そこに自我という哲学的な要素が入ると上記の様な説明になるけど精神論ではないです。
そもそもスピリチュアルとかオカルトとか科学、哲学って原点が錬金術なのですよ。
錬金術の元もありますけど、それはまだ混沌って感じで定まってなくて、総合的になったのが錬金術。
精神論であり、哲学であり科学だった。
その三つは深いところで繋がって互いの理論を支えてた訳ですから、様々なな思考がそこに戻ってもおかしくはないです。
全ては原点に戻るのです。
微分子も、思考も。
生と死が同一であってお互いが求めあい原点に戻るように。
これはあくまで私の思考なのでこれが正しいとか思ってる訳でもないので。
こう考えると私は楽しいというだけの話しです。
単に錬金術が好きなだけです。
話がずれずれです。戻します。


散歩をしていて思うのは数々の芸術家の作品について。
あの絵師の作品は線も色も少ないのに見事に描ききっていたんだなぁ…あれこそが私の求める一線の重みだなぁ。

あの画家の細密な描写はこれを言わんとしていたんだなぁ、なるほど、彼はあの描写にまさに命をかけたんだなぁ。

あの建築家は、まさに自然と一体になって、尚且つ人と自然との交わらない異質な部分さえも、全てを包んだ世界を残したんだなぁ。

とかとかとか。
では自分はなんだろう、どうするだろう、何を残したいんだろう…と考えて、ただ風景を眺めている事が制作そのものな気がします。
自分の中に答えはある様な、無い様な。

それでも、精神が乱れてなにも手に付かない時はアントニオ・ガウディの建築物の写真を眺めます。
あれこそ、人の創り出す無限の自然な気がします。
人というのは大した存在ではないけど、同時に偉大だと心から思います。

2014年5月28日水曜日

プラチナアート大賞展

プラチナアート大賞展にて入選頂きました。
ありがとうございました!

2014年5月24日土曜日

切り絵は紙切れ。

切り絵 カジタミキ
切り絵って結局ただの紙切れだと思う。何が描かれ切られていてそこにどんな技術があっても紙切れは紙切れ。
絵も物質的には、布や紙についた塗料でしかない。
大事なのは物体としての作品ではなく作品たる核じゃないかと思うのです。
技術や労力、精神論以前の、以上のもの。

何故作品を作っているの、と聞かれる事がありますが、好きなのは勿論大前提だけど、何より執着しているのは「死なない事、死にたくないって事」だと思います。
 死ぬことと生きることは同義で、個を知るは全を知る、全は個を知る事だと思う。
生きることは戦う事で、戦わなければ死ぬことはできない。
死は物質に起こる現象ではないと思う。
私は戦って死にたいし、死にたくないから戦います。多分自分と、色々と。


作品という物体を越えたい。
紙切れで終わらせないためにも。
本当の意味での「作品」に昇華させるためにも。
芸術であり、私はそれを作り出すアーティストという存在に、きちんとなりたい。
ので、作家名にわざわざ「アーティスト」とつけているのです。
これ付けるのはちょっと勇気いりました(笑)
その名に相応しい存在になる為に、という自分の逃げ道無くすためです。


作品という物体を越えること、それは私にはそれは死を越えると同義。肉体の消滅は死ではなく、精神の消滅が死で、私は精神は作品にある。

物質があるから作品なのではなく、物質の有無に関わらず作品である、という作品にしたい。


生死さえ越えるような…私は精神論者ではないし、スピリチュアルは苦手なのでそういう話しをしているのではまなく、ただ、脆弱な物質に頼りたくはないと思う。

それは途方もなく大きな「無」という存在。

私という肉体の存在は全く必要なくて作品が作品たる核さえればいい。
それは作品そのもののかたではないし存在の有無にも左右されないような。

物質って元をたどれば素粒子とかになっちゃうわけで、それってどの物質も同じなんだから、宇宙も地球も人間も、蟻も大した違いはないんだろうし、自分という存在そのものに
も大した意味は無い気がします。
なので個の存在の立証ともよべる自己表現って本当に意味あるのかなーって思うのです。
意味ないっていうか、個という存在の価値が私にはわからない。

自己主張ばかりする自己顕示欲な作品って、胸焼けするんですよねぇ。


切り絵アーティスト カジタミキ

2014年5月21日水曜日

作品愛がっ!

連日作品触れていて思うのは、自分の作品好きってすごい幸せな事だなぁって思います。
自分の人生の時間使って、試行錯誤して生み出すものって命の結晶みたいなものだと私は思います。
自分が大切に育てた存在だから、興味ないわけないし、反省点はもちろん、いつ見ても新鮮で、常に新しい刺激や気付きをくれます。
作品大好きだからこそ、もっともっと見たい、素晴らしくしたいって思うし、自分の拙さを反省して不安にもなります。
次はもっとこうしよう、ああしようとか…。
好きと満足は違うのですよね。

作った後は興味ないという方が悪いとは思わないです。知人にもいますが、その人の作品、私は好きです。
カラッとしていて、突き抜けてる空気があります。
私みたいに執着とか気負いがない分、受け手も必要以上に構えなくてすむのかもですね。

重たい自覚はあります(笑)
ぞれがいいって人もいるし、私も私はそれでいいと思います。
人それぞれでいいんだと思います。
芸術は善悪を決めるものではないので、これが正しい、間違いはないと思います。
あるとするなら偽らない事だけではないかなぁ。
興味ないのに、興味ないって言うと駄目みたいで興味あるふりするって人、こだわりとか恥ずかしいって言って拘らないふりをする方もいましたが、偽ることは1番良くない気がします。体にも心にも。
嘘はいつか無理になる。
身動きつかなくなる。
偽らない事こそ価値があると思います。
それで作品作れなくなりより、自分はこうだからって言ってしまえばいいし、それでいいんだと思います。

私は自分の作品好きで、本当に幸せ。
これで良かったなって思います。
人生で一番時間かけて打ち込むものに興味があって、好きでいれて、好きな事を生き甲斐にできて、追求できて、それを人が好きって言ってくれて、損得抜きで応援してくれて、仕事になってて、好きな事で生きていける、人と繋がれる。
作品に感謝が溢れます。してもしきれないくらい。
本当に子供みたいにも思ってるので、私の所に生まれてきてくれてありがとうって思うし、大切だし、愛しいし、でも、いつかは自分から離れるもの。
だけど、作品の力を信じてるから、どこへ行ってもこの子なら大丈夫、人を幸せにできるって思ってます。
自分を自慢したいとか名声を広げる為の道具ではなく、この子が幸せに出来る人が一人でも増えれば世界の何らかは変わると信じているのです。
そして自分自身のことをもっと知りたくなります。
作品が世界を変えるなら、私は世界と向き合う必要があって、私は世界に対してどう生きて、何を感じ、どうするのか気になります。

自分が今後どんな作品を生むのか楽しみで仕方ないです。
作品が好き、自分に興味あるってやっぱり幸せです。
私の作品の一番のファンは私なのです。
自分で作って自分で幸せになれるっていう心の自給自足。
セルフヒーリング、かもですね。
だから食事も睡眠もつい、無意識に忘れて打ち込んでしまうのですけどねー…。
心に良くて体によくない。
微妙…( ̄▽ ̄;)


2014年5月18日日曜日

作品の名前と説明やめますた。

去年からかかってる作品。
他の作品の方が急ぎだったりで、かなり長いこと制作止めてました。
今月からやっと再開。
もう締め切り間近なので焦っていますがなかなか進みません。
いつ終わるやら。


作品に名前をつけること、説明する事をやめることにしました。

作品を説明するって、自分作品で伝える努力をやめて、人の想像する余地、可能性を奪うって事が起こる場合もあると思います。


今後は過去の作品のタイトルも表示しません。
作品をどう受け取ってもらってもいいし、好きな名前で呼んでもらえればいいです。
自分も作品も他者にも、どこまでも自由な存在で居て欲しいのです。

そもそも、どこをどう工夫したとかこういう事を表現しています、ここが見所ですってのは言ってしまえば工作発表会みたいだなぁって若干思ってました。
小学校の夏休みの工作発表会。
あれは苦痛だった。
説明を求められるけど説明する度に押し付けてないか不安で不安で。
語れば語るだけ違う気がしてから回る。

でも説明は作家であれば当たり前に求められるし、前は出来てこそ作品、作家って思ってました。
いや、それが正しいのかも知れない。
そうあるべきかもしれないけど、他の人にとって正しくても私にとって正しいとは限らない。

言わなきゃ伝わらないなら作品の意味ってなんでしょう?
そしてこれはこういう意味のある物体ですという枠にはめてしまうので、当然、それ以上の創造性を失う気がします。それはとても怖い。
商品説明みたいです。

「表現してみたかったけど表現になってなくて伝えられる力がないので言葉の力をかりて説明します。でも物は作れたので認めて下さい」
って言っちゃってるんじゃないかって気がどんどん強くなってきて、悩んでいたら、とあるTV番組で海外でご活躍の画家さんを知りました。
人に自由に受け取って欲しいので題名付けない、説明しないと言っておられて、ああ、そうしたかったらそれでいいのかと…ストンと肩の力が抜けた気がしました。


説明したくないのは、私を褒めて欲しい訳ではないし、私を理解してほしいからじゃないというのもあります。
作品は自己表現とよく言われますが…自己表現ってそもそもなんでしょうね。

自分をわかって!という意味での自己表現は暴力的な押し付けではないでしょうか。
凄いって言って、認めて!という依存心。
押し付けられると逃げたくなります。

これが自分ですよ!わかってください!と、ドンと目の前に置いて、他者に意味があると思っているってなんだか図々しい話です。

価値あるって押し付けられても困惑する。
考える機会を奪われてしまう。

自分に相当価値があるという自信なのか、自信がないから価値の確認なのか。


「わかってもらうとか興味ない」という思春期なアレじゃなくて、突き放してる訳でもなくて、私の作品を見て私について考えて欲しい訳じゃないんです。

意図的に汲み取ってもらおう、理解してもらおうというのは媚です。
私は私、あるがままに作り、他の人が見るのを助けも邪魔もしたくない。

私は作品を作りますが作品は私のものではありません。
作品をきっかけに観る人に自分なりの感性がうまれれば、それはその人にしか感じられなかったものだから、もうその人にとっての作品であり、私の作品もその時初めて作品として完成する気がします。
見る度に色々と感じる事がかわる事もあるので、有る意味作品は永遠に完成しないとも思います。

私という人間を知って欲しい訳ではないのです。
作品は私の命、魂そのものかも知れませんが、それとこれは全く違う話です。


説明による表面上の理解は楽です。
感性によって感じるのは楽ではありません。
時に苦しいですね。
簡単な答えをあげないというのはとても意地悪でいやらしいかもですね。


そして本当に作品が純粋な自己表現であるならあるだけ、タイトルも説明も不要になっていくのではと考えます。
作品だけが全てを現せるのですから。
作品の力を信じているから余計なものはいらない。
私はシンプルに生きていきたいのです。
作品つくるのがもっと楽しくなります。

題名をつけないこと、説明しない事は私にとって良い選択ですがそれが他の人にとっていいとは限りません。
自分にとってどうか、というのはとても大切だと思います。
他の人がそうだからは関係ないのですよね。
自分の作品、自分の生き方ですから。

2014年5月3日土曜日

切り絵作品 「始」「クジラ」「世界の歌」

切り絵  タイトル  始
モチーフは水とか細胞とかです。

切り絵 クジラ
そのまんま。
これは量産します。

切り絵 タイトル   世界の歌

「クジラ」と同じ絵ですが、大きさが少し違います。
あと枠謎のがあります。
こちらは一点もの。







切り絵アーティスト カジタミキFaceboo

2014年4月21日月曜日

切り絵 作品名 始

切り絵
作品名 始

細胞とか、水とか。
最近、水の音、存在に敏感で、身体中にも水とか血液とか駆け巡ってて、地球にも駆け巡ってて、海は原始の記憶があってきっと全ての生物も持ってて、原始という点では海も生物も同じで、始まりは細胞で水っていうのが気になります。日本語変。
海の音について考えると夜も眠れないのです。
波の音っていうより海の音。
波も海の音だけどそれは一部であって、全てじゃないですよね。
沢山の水の音がしますよね。

始まりって、終わりがあるって事でもあるんですよね。
生は死と同義だとも思うのですよ。
死あってこその生命力だと。
死を感じるものは落ち着きます。
最大の休息です。

写真ではわかりにくいかもですが、一層目と二層目に距離があっるですよ。
あと、一個だけ隠れハートがあるよ。
見つけたら5百円あげるよ。嘘。

気持ちいい気持ち悪いで、とても気持ちいいです。




2014年4月18日金曜日

艶座の狐に出させて頂きました。

百草常春さんの個展にゲスト参加させて頂いた作品「手」。
タイトルも切り絵も限界までそぎ落としました。
艶座の世界について考えて考えて、たどり着いた一つの答えだけを表したくて。

第一回個展は20日まで!
奈良市のギャラリー勇斎にて。
百草常春さんHP 艶座の狐特設ページ

2014年4月17日木曜日

切り絵アートグループSAMURAI参加!

切り絵アートグループSAMURAIさんに参加させていただきました。

切り絵作家は
「世界に切り込む刃の扱いに長けた者」
現代のサムライという事でグループ名もSAMURAI。
かっこいいいいい!
今後どんなグループ活動が行われるか楽しみです!


切り絵アートグループSAMURAI

2014年4月14日月曜日

百草常春様個展 艶座の狐

昨日を持ちまして、松江市イングリッシュガーデン様での展示が終わりました。
ご来場頂きました皆様、イングリッシュガーデン様、本当にありがとうございました!


さて、いよいよ明日から、奈良市のギャラリー勇斎様で、百草常春様の個展が開催されます。
私もゲスト展示させていただきますです。

艶座の狐 特設ページ



2014年4月13日日曜日

切り絵について。

なんで切り絵なんですか、という質問を度々頂きます。
私が切り絵を始めたきっかけは2008年に出会った伊勢型紙。
柄はとても綺麗だったっんですけど、古いものなので虫食いだらけで、ボロボロで、それが日の目を見ないのはとても惜しい気がして自分で試行錯誤し、綺麗な用紙に複製してました。
趣味で。
自分が切り絵をやってるとは知らないままそれを続けました。

今、なぜ切り絵なんだろうって思うと、私は今でも「切り絵」を「作っている」という言葉にはしっくりきてないのです。
切り絵を作っているというより、紙の中から命を切り出している、生み出しているという感覚です。
紙を目の前にすると、すでに存在する命のような物?存在?が自分を見てくれ、感じてくれと語りかける様な感覚になって、それをきちんと体現させる為に、いく度となく話しながら、「一番気持ちのいい線」を一緒に見つけていく作業を行います。
それは単に受けてではいけないし、自我だけでも気持ち悪いものです。
双方の望みが合わさってこそだと思っています。
それが下描き、ペン入れです。
お互い納得できたらやっと切れます。
確認試合ながら、「ああ、そうそうそこで出して欲しい」と言われてるような感覚で、切り出していくと、どんどん存在が強くなって、最後の紙を切り離すと、「誕生」になるのです。
すでに紙の中に存在している者なので、どうしよう、何にしようとは考えて作ってはいません。
逆に紙を前にしないと何をしていいか、したいかも分からないのです。
考えるというより感じるという感覚?かな?
ずっと、問答している感覚。
何も考えずぼやっと作ってる訳ではなく、本当にこの線で正しいか、体現できるか、それはとても真剣勝負です。
作品を作るということは生き方であり、死に方です。
どの線も無駄にしたくない。
意味のない線は出さない。
全て、どこをとっても100%。
一は全、全は一、というのが私の座右の銘です。
一線全魂です。

目の前の紙に感じる存在は、自分にとってなんだろうとか、何を伝えたいんだろう、とかとかとか。
作品にするからには責任が出るのでいい加減は出来ません。
自分が伝えたい事を明確化するにせよ、感じるままに制作するにせよ、それは私のメッセ
ージだったり、命そのものなのです。
全部、自分で選んで自分で残すと決めたものです。
誰かに言われた訳でなく、自分でこれをつくろう、生み出そうと決めて取り掛かっている事。
それが形に出来るのはとても嬉しいですね。
作りたいと思ったものが目の前に具現化するって幸せだなと思います。
こういう事を書くとスピリチュアルとか不思議系とかよっっく言われますが、私はどちらでもないです。
オカルトは好きですけどね。



切り絵アーティスト カジタミキFacebook

2014年4月12日土曜日

制作中でう。

輪っか!でう。
だからなんだ、と言われそうですが。
作品の一部です。
明日の朝までに全パーツ作らねばねば。
今日はドライカレーが食べたいにゃー。


切り絵アーティスト・カジタミキFacebook

2014年3月29日土曜日

作品名 オルゴール

今回の展示が終わったら額を全部、変えられる物は変えてしまおう。何もかも一度忘れて。
中にはもう変更きかないものもあって、このまま展示し続けるのもあるけど、それ以外は全部。

たかが額の変更、買い換えるだけ、という訳ではないの。
自分が、こういう風に観たいなと思ってた自分を、自分の世界を否定して、殺すような気持ち。
だけど、そこに固執してたら終わってしまうのもわかるから。
自分の世界は良くならないから。

自分を曲げて、信念を消してでも、よりよくする為なら決断しなきゃいけない事なのだと思う。
「今」じゃなくて、もう少し先の為に。
わかってるのよ。わかってるけど、辛くない訳じゃないので。
頭と心は違う。
それでも、超えて進みたいと思える道があるので、私は幸福者だと思う。

2014年3月27日木曜日

雲南市桜祭り告知

雲南市木次の桜祭りにでますー。
出演者の中に実は名前があります。ライトハウスのところで作品参加してます。
主に夜です。
よろしくお願いしますー。

2014年3月25日火曜日

人の痛み、食の話。

落ち込んでる人に対して「世界にはもっと辛い思いをしている人がいるんだから」っていう人いるけど、目の前の人間の辛さを想像できない人に、世界の何がわかるんだろう。


相手の悩みや辛さに対する言葉を出せない事は悪いことじゃないけど、その「自分のできない事」の力の無さ、手に負えない負担に対する苛立ちを悩んでる人のせいにして、ただでさえ辛い人に覆い被せるのはどうかと思う。

同じように、子供が食べ物をの残すことに関しても「食べたくても食べられない人が…」という理屈を子供の脳で理解できるのだろうか?
ちんぷんかんぷんな理論によって、納得もしていなのに強制的に食べたくないものを押し込まれるのは大人だって苦痛のはずだ。
それが理解出来るいうな年齢になれば別の問題に気づくと思う。
この理屈は屁理屈であって理論的じゃない。
なぜ、世界で苦しんでる人がいるのに見栄えのよい野菜ばかりスーパーに並べるの?必要以上に商品を充実させるの?コンビニやファストフード店で破棄を毎日数トン出すの?
牛一頭育てるのに必要な水は1t、肉食をやめる必要はないけど、廃棄の数を減らす努力をすれば、牛の数は減って、その分が飢餓に苦しむ人に回るんじゃないの?ただし、畜産家は死ぬ、このシステムは大人が作って、引き継いでるでしょ?という世界の矛盾を突きつけられた時に子供に返答できないので、「世界には食べたくても…」は使うのは、私は良いとは思えない。
この食べ物を食べると骨が強い体になって仮面ライダーみたいに強くなるよ!
とか、
風邪ひかなくなるよとか、そういう、身近でわかりやすい、自分に対して何がどう起こるかで説得できないのであれば、相手の立場になっているとは言えないと思う。

私は子供の頃から嫌いな食べ物が異常に多くて、ただ、それを嫌いということがとても嫌で、吐き気を我慢しながら出されたものは全て食べるよう心掛けてきました。
親でさえ、私は好き嫌いなく何でも食べると思っていたくらい。
そうこうしてる内に、どんな食べ物でも美味しく食べられる術を身につけ、昔は嫌いだったものでも今は大好物になったりしてます。
が、ここまでやって思うことは…そこまでしなくていい、です。
出されたものを感謝して頂けるのはいい事ですが、人間、嫌いな食べ物くらい普通はありますから…「申し訳ない」と言えばだいたい許してくれます。
あまりに偏食でない限り。
どうしても無理だなってものは無理のままでいいと思う。
一品、二品食べられないで身体に支障がでる事はないけど、受け付けない味覚と精神的ストレスのWパンチで気分悪くなるかもだから、無理してまで食べない方がいいですよ。
やってわかったやり過ぎた努力でしたが、自分の中では楽しいので今後も続けます。
身の周りのものはだいたい食べられるので、昆虫食とか挑戦したいです。
昆虫食の歴史とか文化、メリット、デメリットを身を持って体験したいです。
一番食べたいのは大型の蜘蛛です。胸が踊りますねー。

2014年3月22日土曜日

流水は逆らわずして強い。

昨日は異業種交流会でした。
深夜まで盛り上がって楽しかったです。
そして頭を整理するのにいっぱいいっぱいですwwww

作品にしても、人にしても、他人との距離のとりかたって難しいなと思います。
他人は自分の思い通りにならなくて当然。
それがわからない、受け入れられないというのは、相手との関係性はどうあれ、自分と他人を同一視してると思うのです。
いじめっ子とか、相手がイライラするって理由を持ってたりするけど、それも他人と自分が同一視しちゃってて、距離が取れないという事だと思う。
まず、思い通りにならない、自分の意思が通じないという事の方が当たり前で、通じるっていうのは当たり前でなはなく、すごい事なんですから。
他人に自分を受け入れてもらえる、意志が通るという期待をし過ぎないのは大事ですねぇ。
それが出来ない人は結果的に自立できない依存性の高い人かなと感じます。

作品にしても、自分の想いを入れすぎて「わかって」が強いとどんなに良いメッセージでも打ち消してしまうのじゃないか、と最近思います。
人は「わかって」と言われる事を無意で拒絶するように出来ている、とも思うのです。
好意が少しでもあれば、わかってあげたい気持ちもでますが…。

しかし、多くの作家は自分をどう出すか、他者との差を生むかに悩みます。

自分を出しすぎる事がどう作品に影響し、結果、いいのか悪いのか、私にはまだわかりません。

その点、自然というのは本当にすごいもので、ただ、彼らは彼らとしてあるだけなのに、人はそこに抱かれ、癒され、自己治癒力を高めます。
自然は押し付けない、拒絶しない。
ただ、そこにあり、静かで、荒々しく、大きい存在です。

江戸期の日本画にその様な雰囲気を感じます。
自分の想いは入れる、省かない。けど、決して押し付けない。妥協もない。
ただ、そこにあって、受けてに委ねられる程の自信と強さ、包容力。
卑屈さを感じません。

もちろん、自己主張の強い作品が悪いというのではないです。
現代アートは自己主張の強いものが多く、むしろその強さ故に人はカリスマ性を感じるのだと思います。
劣等感があるからこそ、「自分」を残すことにこだわるのかも知れません。


自分がどうありたいか、どの道を進もうとも間違いではないので、これだと信じられる道を見極めることなのではと思います。
私はまだ、どこにも覚悟を決めて、腰を据える事ができていないです。

カジタミキFacebook

2014年3月20日木曜日

愛の話し⑵

なんか続き書きたくなったので。
この世界に愛がある、と断定はしないけど、無いという断定もしない。
だけど、「メカニズムは勿論理解している。それでもなお、自分のこれは愛だ」と言える冷静さと覚悟がある人の事を、私は愛だと思う。
メカニズムだ、プログラムだと言われた時に怒りを感じる人は、ただ、自分が直視する事を避けて都合良く隠している部分をつつかれて面白くない人なのではないだろか。
人間、本当の事を言われると怒る。
攻撃されたと思い、自己防衛のためにこちらを攻撃してくる人、そういう人は自己愛しかないんだと思う。
私は私の意見が正しいとも、この世界に正解があるとも思わないけど、間違いもないと思う。

人の意見にただ攻撃で返す人は自己愛が強いんだろうなと思っている。
自分の正当性を主張する事は、自分の不当性の可能性を同時に発生させているのだと思うのだけど…ああ、これきりないな。
色々考えたいなー。
考えるの楽しいなー。

頭よくないのバレるけど楽しいな。
超自己満足。

中島義道さんと愛の話し。



中島義道さんの本が面白すぎる。
「生きるのも死ぬのもイヤな君へ」と「人を愛することができない」と、星新一さんの短編集をぐるぐる回して読んでる。
本を一冊づつ読むの苦手で、2、3冊まとめてしか読めない。MAXは5冊とか…。
集中力が無ければ無いほど増える。
集中力欲しいっす。

特に「人を愛することができない」が面白いです。
世間的に男女の「愛」というものがあって当たり前で、ない人を批判する傾向があるけど、脳にとってはただの電気信号、遺伝子のプログラムで、プログラムってのは全て発動する訳ではないので、無くたって当然というか、そもそも不確定要素ばっかで、「ある」事を前提に話すことの方が違和感だったしそれがなんだかキラキラしたイメージで、この世で一番価値があって、素直にそれをあると言えない人は非人道的扱いみたいなのがおかしい、と思ってた。
疑問を持つことさえ変だとされる。
考えそのものが根拠もなく否定されるのって…本当に違和感なんだけど、それについての説明がなされてたりして、この方の本読むと色々勉強になる。

そもそも、「愛」などという固有名詞があるから、あるとか無いとか論じるけど、あっても無くても、人は増えるし、システムはかわんなくて、どうせ続くなら気分いい方がいい、それは全て利己的な遺伝子によるプログラムだけども、「特別感」に酔っ払っといた方がいいってだけなんだろな。
楽しいことはいい事だな。

個人的には、愛というものがあると仮定するならば、条件が発生するものは愛ではないと思う。
何も望まず、与えるのみ。
つまり、究極の愛は死体になって食される事ではないだろうか、と、いうのが最近人とお話ししてて腑に落ちましたよ。

2014年3月18日火曜日

展示のお知らせ。

展示のお知らせです。
3月29日から4月13日まで島根県松江市イングリッシュガーデンにて。
4月5日、6日は切り絵のワークショップも行います。

ワークショップは予約制と当日受付の二種類あります。
お問い合わせは松江市イングリッシュガーデン
0852-36-3030




2014年3月17日月曜日

ブログお引越し、再開のお知らせ。

長らく「ブログ」という存在から遠ざかっていましたが、再開いたしました。
作家名も「空想制作所。」から「KirieArtistカジタミキ」に変更致しました。
カッティングペーパーではなく、一枚の「絵」である切り絵という存在を世界の公用語にしたい!という思いでKirieという表記を使うことにいたしました。

イベントや展示、活動の情報、作品についてなど更新していきますのでよろしくお願い致します。

3月29日から松江市イングリッシュガーデンにて個展開催いたします。

カジタミキFacebook