2014年5月18日日曜日

作品の名前と説明やめますた。

去年からかかってる作品。
他の作品の方が急ぎだったりで、かなり長いこと制作止めてました。
今月からやっと再開。
もう締め切り間近なので焦っていますがなかなか進みません。
いつ終わるやら。


作品に名前をつけること、説明する事をやめることにしました。

作品を説明するって、自分作品で伝える努力をやめて、人の想像する余地、可能性を奪うって事が起こる場合もあると思います。


今後は過去の作品のタイトルも表示しません。
作品をどう受け取ってもらってもいいし、好きな名前で呼んでもらえればいいです。
自分も作品も他者にも、どこまでも自由な存在で居て欲しいのです。

そもそも、どこをどう工夫したとかこういう事を表現しています、ここが見所ですってのは言ってしまえば工作発表会みたいだなぁって若干思ってました。
小学校の夏休みの工作発表会。
あれは苦痛だった。
説明を求められるけど説明する度に押し付けてないか不安で不安で。
語れば語るだけ違う気がしてから回る。

でも説明は作家であれば当たり前に求められるし、前は出来てこそ作品、作家って思ってました。
いや、それが正しいのかも知れない。
そうあるべきかもしれないけど、他の人にとって正しくても私にとって正しいとは限らない。

言わなきゃ伝わらないなら作品の意味ってなんでしょう?
そしてこれはこういう意味のある物体ですという枠にはめてしまうので、当然、それ以上の創造性を失う気がします。それはとても怖い。
商品説明みたいです。

「表現してみたかったけど表現になってなくて伝えられる力がないので言葉の力をかりて説明します。でも物は作れたので認めて下さい」
って言っちゃってるんじゃないかって気がどんどん強くなってきて、悩んでいたら、とあるTV番組で海外でご活躍の画家さんを知りました。
人に自由に受け取って欲しいので題名付けない、説明しないと言っておられて、ああ、そうしたかったらそれでいいのかと…ストンと肩の力が抜けた気がしました。


説明したくないのは、私を褒めて欲しい訳ではないし、私を理解してほしいからじゃないというのもあります。
作品は自己表現とよく言われますが…自己表現ってそもそもなんでしょうね。

自分をわかって!という意味での自己表現は暴力的な押し付けではないでしょうか。
凄いって言って、認めて!という依存心。
押し付けられると逃げたくなります。

これが自分ですよ!わかってください!と、ドンと目の前に置いて、他者に意味があると思っているってなんだか図々しい話です。

価値あるって押し付けられても困惑する。
考える機会を奪われてしまう。

自分に相当価値があるという自信なのか、自信がないから価値の確認なのか。


「わかってもらうとか興味ない」という思春期なアレじゃなくて、突き放してる訳でもなくて、私の作品を見て私について考えて欲しい訳じゃないんです。

意図的に汲み取ってもらおう、理解してもらおうというのは媚です。
私は私、あるがままに作り、他の人が見るのを助けも邪魔もしたくない。

私は作品を作りますが作品は私のものではありません。
作品をきっかけに観る人に自分なりの感性がうまれれば、それはその人にしか感じられなかったものだから、もうその人にとっての作品であり、私の作品もその時初めて作品として完成する気がします。
見る度に色々と感じる事がかわる事もあるので、有る意味作品は永遠に完成しないとも思います。

私という人間を知って欲しい訳ではないのです。
作品は私の命、魂そのものかも知れませんが、それとこれは全く違う話です。


説明による表面上の理解は楽です。
感性によって感じるのは楽ではありません。
時に苦しいですね。
簡単な答えをあげないというのはとても意地悪でいやらしいかもですね。


そして本当に作品が純粋な自己表現であるならあるだけ、タイトルも説明も不要になっていくのではと考えます。
作品だけが全てを現せるのですから。
作品の力を信じているから余計なものはいらない。
私はシンプルに生きていきたいのです。
作品つくるのがもっと楽しくなります。

題名をつけないこと、説明しない事は私にとって良い選択ですがそれが他の人にとっていいとは限りません。
自分にとってどうか、というのはとても大切だと思います。
他の人がそうだからは関係ないのですよね。
自分の作品、自分の生き方ですから。

0 件のコメント:

コメントを投稿